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2010年に偉業を成し遂げてきたプロゴルファーに敬意を表するとともに、歴史を後世に残すため設立された日本プロゴルフ殿堂を発展的に解消し、2025年4月より日本ゴルフ協会内に日本ゴルフ殿堂本部を設立し、その任を負うことになりました。ゴルフに携わる多岐にわたる分野から、ゴルフ界に貢献された方々を顕彰し、殿堂にその名を残し、その功績を讃え、語り継いでいこうとしています

【日本男子の海外挑戦史・平成編4】●尾崎直道が米ツアーのシード権を8年間確保、シニアでも挑戦尾崎直道が米ツアーに本格挑戦を開始したのは、1993(平成5)年だった。1992年日本ツアーで賞金2位となり、翌93年4月の「マスターズ」に3度目の...
02/09/2026

【日本男子の海外挑戦史・平成編4】

●尾崎直道が米ツアーのシード権を8年間確保、シニアでも挑戦

尾崎直道が米ツアーに本格挑戦を開始したのは、1993(平成5)年だった。
1992年日本ツアーで賞金2位となり、翌93年4月の「マスターズ」に3度目の招待状がきた。当時、マスターズは招待制だった。前年はマスターズに合わせて渡米し、予選落ちに終わった。93年はマスターズ前に3試合をこなしてから乗り込むことにした。
PGATOURサイトによると、2戦目のフロリダ州TPCソーグラス(パー72)で行われた「ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップ(TPC)」の第3ラウンドで68をマークし、首位に5打差の13位につけた。最終ラウンドは前半4つスコアを伸ばして一時3位まで浮上したが、後半失速して通算10アンダーの6位。賞金8万ドル余を稼いだ。
3戦目「フリーポートマクモラン」そしてマスターズとも45位ながら賞金を積み上げた。当時は前年のシード権に相当する額を稼いだ場合、シード選手と同等の資格を与えられる。青木功が米ツアーに本格参戦した時もそうだったが、出場義務試合数をこなす条件もあった。
 ゴルフ誌ワッグルのサイトの尾崎直道自伝によると「家族の賛成を得て、米ツアーへの本格的なチャレンジを決めた。賞金王というタイトルが米ツアー出場の機会を増やし、そこで残した成績が米ツアー挑戦という扉を開けてくれた」と話している。
91年に日本ツアー賞金王となり、92年には米ツアー8試合を戦っていた。ここからは「お客さん」ではなく、ツアーメンバー。日本ツアーの顔でもあり、フル参戦とはいかなかったため、日米両ツアーを掛け持ちで戦うことにした。
PGATOURサイトによると、93年は12試合で賞金ランク115位、94年は17試合121位と翌年シード権獲得の125位以内をクリアした。95年は20試合に出場。290,001ドルを稼いで賞金ランク66位に上げたが、96年は22試合で99位だった。
97年8月のビュイック・オープン最終日に16、17番連続バーディーなどで69で回り、通算11アンダーで2位。報知新聞紙によると、5月の帰国時に米ツアー撤退を考えていたというが「米ツアーベストフィニッシュ、本当にうれしい」と話した。同年19試合115位で翌年シード権を確保し、参戦を続けた。
以降、98年17試合121位、99年15試合128位、2000年18試合123位とギリギリではあったが、翌年シード権を確保。01年は17試合で154位に終わって翌年シード権獲得はならなかったが、93年から8年間、日米で戦いながら翌年シード権を取り続けた。優勝には届かなかったが、その間に日本ツアーでは97年ヨネックス広島オープンに勝って永久シード選手となり、99年には日本プロ、オープンを制して日本タイトル4冠を達成、2度目の賞金王にもなっている。
 「昔の仲間が誘ってくれるからもう1度米国に行きたい」と、2005年に米チャンピオンズツアー(米シニアツアー)の最終予選で出場権を獲得し、06年5月に50歳を迎えると米シニアツアーに参戦した。11年までフル参戦し、優勝はならなかったが、122試合に出場してトップ10フィニッシュ22回、プレーオフ負けも含めて2位に2回入るなど上位をにぎわした。
(文責・赤坂厚)
※写真は1993年から米ツアーに本格参戦した尾崎直道(Getty Images)

【第13回日本オープンゴルフ選手権(1940年)】●宮本留吉が大会最多6勝目をマーク第1回日本プロを制するなど黎明期から第一人者であり続けた宮本留吉と、12歳年下の戸田藤一郎。年は離れていたが戸田が台頭してからこの2人は何度も好勝負を繰り広...
27/08/2026

【第13回日本オープンゴルフ選手権(1940年)】

●宮本留吉が大会最多6勝目をマーク

第1回日本プロを制するなど黎明期から第一人者であり続けた宮本留吉と、12歳年下の戸田藤一郎。年は離れていたが戸田が台頭してからこの2人は何度も好勝負を繰り広げてきた。

そんな宮本と戸田が日本と名のつくトーナメントで最後に覇権を争った舞台。それが1940(昭和15)年の本選手権だった。

会場は東京ゴルフ倶楽部朝霞コース(パー74)である。この後、陸軍に接収されて姿を消した同コースにとっても最後のトーナメントとなった。

5月28日の第1ラウンド、戸田が4アンダーパーの70を出して首位に立つ。宮本は74で8位だった。

第2ラウンド、宮本が驚異的なプレーを披露する。アウトを2バーディ・2ボギーの37で終えると、インでは11、12、13、15番でバーディを重ねた。18番パー5は2番ウッドで2オン。10mほどのパットをねじ込んでイーグルだ。インは6アンダーパーの31。トータル68は朝霞コースで初めての60台となった。

宮本は後に自著でこの日のインでのプレーを「私の生涯で最高といっていいプレー」と記している。

戸田は72。両巨頭が6アンダーパー、142で首位を分けた。

36ホールの最終日、宮本と戸田は別の組でのプレーとなった。第3ラウンドはともに70。一歩も譲らない白熱した戦いが続いた。

最終ラウンドはまず2番パー4で動きがあった。両者ともに2打目をバンカーに入れたが宮本がパーセーブしたのに対して戸田はボギー。宮本が1打リードした。

3番パー3で戸田はまたもバンカーにつかまってボギー。宮本はバーディを奪って明暗分かれた。

宮本は続く4番パー5で2オンに成功してバーディ。パーに終わった戸田との差は4打に広がった。

序盤についた差を生かして宮本が優位にプレーを続ける。戸田は18番のバーディで2打差に迫ったのが最後の意地か。通算11アンダーパー、285の素晴らしいスコアで宮本が4年ぶりの大会6勝目を飾った。

これは、今なお残る本選手権最多勝記録である。宮本はここまで12回の出場で6勝。勝率5割という強さだった。

宮本はゴルフ誌のゴルフドムに「これまではプロとして日常生活の大部分の時間をクラブ製作に費やしましたが、近頃の材料不足でこの方面の仕事はほとんど出来なくなりました。しかしその為に練習時間が多くなり、最近の私は自分でも調子がよくなったと思っている位です。それが今度図らずも私が優勝するようになった第一の原因だと思っています」(一部現代語訳)との書き出しの手記を寄せている。戦時色が濃くなっていた時代であることを感じさせる内容である。
(文責・宮井善一)

※写真は最終ラウンド15番ホールで2打目を放つ宮本留吉(ゴルフドム1940年7月号=JGA所蔵=より

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 91】●Royal & Ancientに込められた意味は?100年前のコラムはタイトル名も難解だ。ゴルフドム1928年4月号に「ごるふぃ あな みせらにあ」というC.I生(伊藤長蔵)のコラムがあ...
20/08/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 91】

●Royal & Ancientに込められた意味は?

100年前のコラムはタイトル名も難解だ。ゴルフドム1928年4月号に「ごるふぃ あな みせらにあ」というC.I生(伊藤長蔵)のコラムがある。ミセラニアはスペイン・ポルトガル語で「種々雑多な記事などを集めたもの」という意味があるそうなのだが、このコラムの題名、何かいい訳し方はないだろうか。
書かれているのは「Royal & Ancient(ロイヤル&エンシェント、R&A)」についての考察だ。出典は不明。内容を簡略に紹介したい(一部現代語訳)。
「GOLFのことをRoyal & Ancient game of golfと呼ぶ。ゴルフの聖地St.AndrewsをRoyal & Ancient Golf Clubという名があるが、1754年にできたSt.AndrewsはRoyal & Ancientよりはるかに後でできたものであり、1834年にウィリアム4世がパトロンになってからRoyal & Ancient Golf Clubと改名されたのである」という前書きから始まり、Royal & Ancientについて考えている。
まず、Royalが王室のことだとすれば、ゴルフがどうRoyalにかかわっているかの事例を示している。ゴルフを記述した最古の文書として知られる1457年のジェームス2世の「ゴルフ禁止令」に始まり、歴代の王室とゴルフの逸話を列挙している。その上で「昔から王室はゴルフに関係があったことは一朝一夕ではない。Royalの意味はここにある」としている。
次にAncientとは何か。「古文書の1457年はまだAncientではない。Ancientは太古である」とし、ゴルフの起源にさかのぼっていく。「歴史家は、14世紀の絵まで遡って、行き詰っている」とし、「そこでSir W.C.Simpsonが史料などに頓着せず起源を説いている」と引き合いに出した。それは「羊飼いが羊を追っているうちに、手に持った杖で小石を打ってみた。St.Andrewsのような砂丘の芝原でそれが一度でもウサギ穴に飛び込んだりする。“やろうと思ってもできないことだ”と叫んでもう1度やってみたりする。しかし、1人では長続きしない。仲間を呼び寄せてやってみせ、仲間も小石を拾ってくる。石が飛び出さないようにウサギ穴を深くし、パッティングのように練習するようになる。力の強い羊飼いは遠方から狙う方が公平だと言い出す。最初はputtするの目的だったが、距離が長くなってdriveするのが主目的になり“go off”または“golf”という。そのうちに羊が動くので、courseを周回することを思いつく。いまやholeがそこかしこにできたので、印として棒に羊毛のホロをかけて立てることにしたのが、旗竿の始まりである。スコットランドの田舎に行くとそのような旗を使っている……」。
いま我々がゴルフの起源の1つとして考えている羊飼いの遊びというのは、Simpson氏の想像であり、伊藤長蔵が最初に日本に広めたということだろうか。
「いかにもありそうなことである。遊牧時代の民の戯れは、今日のゴルフとほとんど変わらない。それが太古、Ancientの意味である」と締めくくっている。
では、Royal & Ancient、R&Aとは「王室が夢中になった羊飼いの遊び」という意味なのだろうか?
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1928年4月号(JGA所蔵)
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【第12回日本オープン(1939年)】●26歳戸田藤一郎が初の日本一に輝く 廣野ゴルフ俱楽部で6月7~9日の3日間、開催された。ゴルフドム誌にその模様が詳しく書かれている。「本年度のオープンの感想」を寄稿したのは高畑誠一氏だった。この年は選...
13/08/2026

【第12回日本オープン(1939年)】

●26歳戸田藤一郎が初の日本一に輝く

 廣野ゴルフ俱楽部で6月7~9日の3日間、開催された。ゴルフドム誌にその模様が詳しく書かれている。「本年度のオープンの感想」を寄稿したのは高畑誠一氏だった。この年は選手として出場していなかったようだ。高畑氏によると「秋に挙行されるのが慣例であるが、晩秋にティーとフェアウエーを荒らされると芝草の回復が不可能で、会員に次年度初夏まで不愉快と迷惑をかける恐れが多分にあるので、廣野の希望で晩春になった」とある。
 距離は「カードには6775ヤードとあるが、オープンのため延ばしてあるから6800ヤード近く」で、パー72に設定されていた。ちなみに全米オープンと同じ日程で開催したという。
 高畑の感想には、予選ラウンド2日間各18ホール、決勝ラウンド36ホールのプレー詳細はあまり書かれていないが、トップアマらしい視点で書かれているところがある。「廣野はベントグラスのグリーンとしては広すぎる。ローラーはめったに使用しないため、目土を度々やる結果、グリーンは固くない。球がよく止まる。プロには最もやさしい。高麗グリーンのオープンと比べてアプローチもパットもやさしいので、良きスコアが出るはずなるも、問屋はそう卸さない。第一、プロ諸君は相当ナーバスになる。第二に天候に左右される」と記している。
 予選ラウンド第1日、宮本留吉が首位に立つ。大阪朝日新聞によると、宮本は1、5番でボギーが先行したが、9番でイーグルを取り、12、17番でバーディーを奪って2アンダー70で回った。1打差で森岡二郎が続き、優勝候補の陳清水、林万福は2打差、戸田藤一郎は3打差でスタートした。
 予選ラウンド第2日、戸田が浮上する。アウトを2アンダーで回り、インをパープレーで抑えて通算1アンダーとした。宮本は堅実なプレーで73で回り、戸田と同じ通算1アンダーで首位を守った。
 決勝ラウンドは前夜からの雨が止まず、小雨の中をスタートした。約1時間後に雨はやみ、午後は快晴になった。
 午前は戸田が1アンダーで回り、通算2アンダーとして首位に立った。宮本は76と崩れ、戸田に5打差に後退。代わって、3打差で陳が2位に浮上し、優勝争いは2人に絞られた。陳は午後の6番で「1尺(約30センチ)のパットを軽率にもミスして非常に気を腐らし、7番のティーショットを右に押し出して」(ゴルフドム誌)と、アウト39と崩れて、戸田の一人旅になった。
その戸田にアクシデントが起こる。大阪朝日新聞によると、17番のバンカーで「砂の堅さを踵で確かめんとしたため、2ペナルティーを科された」とある。それでも、首位は動かず、午後73で回り、通算1アンダーでホールアウト。陳に5打差をつけての勝利だった。
ゴルフドム誌は戸田初優勝の瞬間をこう伝えている。「ボールがカップに落ちた音がしんと静まった中ではずいぶん大きく聞こえる。パートナーの内田君もホールアウトした。二人はホッとしたように堅く握手する。何か破れたように拍手の音が高く晴れた空に響く。カードをつけながら歩く二人を囲んでギャラリーの群れが続く。ヴェランダの時計は三時三十七分。これが今年のオープンチャンピオンの決定した時間なのだ」と、新しいチャンピオンを祝福している。
戸田自身が「栄冠を獲(か)ち得て」と題してゴルフドム誌に寄稿している。抜粋してみる。
「幸いにして優勝を得まして喜びに堪えません。私のこれまでのオープンはいつも第二日目にスコアを崩していました。今年は何とかしてこの失敗をしたくないということにもっぱら意を用いました。そのためか、第二日に宮本さんに追いつき、自分でもこれならばあるいは…といった希望をはっきりと持つことができ、楽な気分で第三日をプレーできました。
なにしろ、ホームコースだけに幾分かは気持ちの上で負担を感じていました。元来、私はドライバーがあまり得意ではありませんだけに、まずドライバーが正確に飛ぶように注意しました。パットは私としては好調-というよりは平常の調子を持ち続けていくことができました。
私はアンダークラブで力いっぱいひっぱたくよりは、大きいクラブで楽に楽に打つことを心掛けていますが、練習で一緒に回ってもらった宮本さんもそういうふうに打っていましたので、二人で笑い合いました。
何にしましても、私のような未熟な者がオープンの栄冠を勝ち得ましたのは、あらゆるコンディションに恵まれた上に、各位からの熱心な声援の賜物だと信じます」。
 その後、数々のタイトルを取り「鬼才」と呼ばれた戸田、26歳での初栄冠のうれしさが表現されている。この年、日本プロ、関西オープン、プロを制し、年間グランドスラムの偉業を達成している。
(文責・赤坂厚)

※写真はゴルフドム1939年7月号(日本ゴルフ協会所蔵)

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 90】●エチケット・マナーの大切さは100年前も同じ100年前も「ゴルフのエチケット・マナー」についての啓もうは行われていたようだ。ゴルフドム1928年3月号に「Golf courseに於ける礼...
06/08/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 90】

●エチケット・マナーの大切さは100年前も同じ

100年前も「ゴルフのエチケット・マナー」についての啓もうは行われていたようだ。ゴルフドム1928年3月号に「Golf courseに於ける礼儀 相手に対する考慮と自分の立つ場所」という記事が掲載されている。長いので要約してみます。(一部現代語訳)
「コースには、自分のプレーのみエンジョイして他人の迷惑になることを考えない人または知らず知らずの間に迷惑をかけているのを注意されてプリプリ怒る人があるのを見かける」という前提で始まる。
「現代(当時)のように何事によらず忙しくなってきたが、あまり急ぐのはみっともない。急ぐゴルファーは往々にしてエチケットが欠けていることがある」と指摘している。
ある「プレーしていて気持ちの良い男」を例に、ゴルファーとしてあるべき姿を書き出している。
「前方でプレーしている組の中または追い越して球を打ち込むのは非常に失礼な行為である」「前の組のプレーヤーのショットが終わり、自分の飛距離では届かないところまで行ってから球を打たなくてはいけない」「もし前方のプレーヤーが下手で、後方のプレーヤーがうまい場合、前方のプレーヤーは自発的にコースを譲ってパスするのが紳士的行為である」とショットでのエチケットを紹介する。
「グリーンでは」といい「相手のパットの際は静かにすること」「スコットランド人の言葉として『パットをするときはグリーンはその人のものである』というは、集中力を妨げないという意味である」「これはティーショットの時も同じである」と、心得を説明している。
ショットを見る立ち位置について「距離を取ったうえで相手の前に立つ」「相手の手が見える位置が一番安全な場所であり、打つ人は球を見ているので前にいる人は目に入らない」「手を見ているとショットのコツを会得する場合もある」と、見る位置を推奨している。
「要するに、静かに相手の邪魔にならないよう、他人に迷惑をかけぬようにゴルフをエンジョイするのが紳士道である」と結論づけている。
100年たって道具もコースも格段に進化しているが、エチケット・マナーが問題になるのは今も昔も同じようだ。ただ、「これはだめ、あれもだめ」とか「こうしなさい、ああしなさい」とか、あまり神経質にならなくてもいいのでは。「要するに~」の部分を守れば問題ないということだ。
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1928年3月号(JGA所蔵)
※本稿に関わる情報や資料をお持ちの方はぜひお寄せください
※引用部分一部を現在の漢字に変換します
※一部敬称は略します

【日本女子の海外挑戦記・平成編4】●平瀬真由美、日本選手初のルーキー優勝を飾る1993(平成5)、1994(平成6)年と2年連続で国内ツアー賞金女王に輝いた平瀬真由美が米女子ツアーの予選会に挑んだのは3年連続女王がかかった1995(平成7)...
31/07/2026

【日本女子の海外挑戦記・平成編4】

●平瀬真由美、日本選手初のルーキー優勝を飾る

1993(平成5)、1994(平成6)年と2年連続で国内ツアー賞金女王に輝いた平瀬真由美が米女子ツアーの予選会に挑んだのは3年連続女王がかかった1995(平成7)年のことだった。夏の1次予選をクリアして臨んだ10月の最終予選会は苦しみながらも14位に入ってツアーメンバーの資格をつかみ取った。

この後、国内では11月末の最終戦まで激しい賞金女王争いを繰り広げ、惜しくも塩谷育代に逆転される。翌1996(平成8)年1月、短いオフを経て平瀬は米女子ツアーメンバーとしての初戦を迎えていた。

大会はフロリダ州開催のヘルスサウスイノーギュラル。第1ラウンドこそ73と出遅れたが第2ラウンド、最終ラウンドはともに3アンダーパーの69で回って通算5アンダーパーで競技終了。堂々2打差の6位に食い込んだ。ツアーメンバー初戦でのトップ10入りは1978(昭和53)年の吉川なよ子(2位)以来2人目の快挙だった。

その後も平瀬は度々上位に顔を出していく。10月のベッツィ・キングクラシックでシーズン6回目のトップ10入りとなる7位に入り、一時帰国。日本開催の東レジャパンクイーンズに備えた。

11月1日に始まった東レジャパンクイーンズの会場は茨城県の利根GC。平瀬は第1、第2ラウンドとも70で回り、通算4アンダーパーでマギー・ウィル(米国)と首位に並んでいた。

最終ラウンドは追い上げてきたローラ・デービース(英国)、米女子ツアーの先輩・小林浩美との争いになった。一時はデービースと小林に後れを取っていたが、18番のバーディで先に首位で上がっていたデービースに追いつく。小林は17番のダブルボギーが響いて1打差3位に終わった。

18番から始まった2人のプレーオフはまず両者バーディで2ホール目の16番へ。ここは平瀬が6mのパーパットを残すピンチをしのいで3ホール目の17番パー3を迎えた。

168ヤードのこのホール、平瀬は6番アイアンで5mに乗せた。飛ばし屋のデービースは8番アイアンでグリーン奥のカラーに外す。デービースはここからパターで3打を要してボギー。確実に2パットで収めた平瀬に軍配が上がった。

米女子ツアーメンバーとしての優勝は樋口久子、岡本綾子、小林に続く4人目になるが、ルーキーイヤーでいきなり勝ったのは平瀬が初めて。故郷の日本で快挙を成し遂げた。

この年、平瀬は賞金ランキング17位に入った。ルーキー・オブ・ザ・イヤーは賞金女王に輝いたカリー・ウェブ(オーストラリア)という超大物がいたために逃したが、他の年なら受賞してもおかしくないほどの見事な成績だった。
(文責・宮井善一)

※写真は東レジャパンクイーンズカップで優勝した平瀬真由美(提供:MBS)

【第11回日本オープンゴルフ選手権(1938年)】●台湾出身・林萬福が日本オープン初優勝 戦争の影響で姿を消してしまった名コースがいくつかある。神奈川県の藤澤CCもそのひとつ。赤星四郎、六郎兄弟らの手によって設計され、1932(昭和7)年に...
23/07/2026

【第11回日本オープンゴルフ選手権(1938年)】

●台湾出身・林萬福が日本オープン初優勝
 
戦争の影響で姿を消してしまった名コースがいくつかある。神奈川県の藤澤CCもそのひとつ。赤星四郎、六郎兄弟らの手によって設計され、1932(昭和7)年に18ホールが完成したが、1943(昭和18)年に海軍に接収されて閉鎖となってしまった。

その藤澤CCで日本オープンゴルフ選手権が開催されたのが1938(昭和13)年のことである。パーはアウト36、イン37の計73という設定。10月11日から3日間、67選手が参加して行われた。

第1ラウンドは4アンダーパーの69で回った林萬福が首位に立った。林は台湾出身で、当時は東京GC所属。本選手権には1931(昭和6)年から参加しており、前年は自己最高の3位に入っていた。その翌月の関東プロで初優勝を飾り、1938年に入っても9月の日本プロでは予選で67、67の当時としては驚異的なスコアを叩き出してメダリストに輝くなど勢いに乗っていた時期だ。

2位は71で回った安田幸吉。前年覇者の陳清水は72で3位グループにつけた。

北寄りの風が吹き、冷たい雨が降った第2ラウンドは各選手スコアメークに苦しんだ。そんな状況でもこの日ベストスコアの73にまとめた林が通算4アンダーパー、142で首位の座を守る。

2位の宮本留吉とは6打差。林が独走態勢を築き始めた。

36ホールの最終日も雨だった。ゴルフ誌のゴルフドムは「前日にも増して風雨は強くかつ冷たい」と報じている。

林は天候の影響もあってか、第3ラウンドは79と崩れた。6度目の優勝を狙う宮本と台湾の先輩である陳が2打差にまで迫ってきた。

最終ラウンドのスタート前、林はレインウエアの下に着ていたセーターを脱いだ。風邪気味だったので寒さを用心して厚着した結果、窮屈になってスイングしづらかったからだ。

身軽になった林は本来の当たりを取り戻す。2番でバーディを奪うなど、アウトをパープレーの36で折り返した。

宮本と陳は停滞し、代わって追い上げてきたのが若い戸田藤一郎と中村寅吉だった。アウトを終えた時点で中村が3打差の2位、戸田が4打差の3位に浮上していた。

それでも、立て直した林のゴルフは乱れなかった。インもパープレーの37でまとめ、トータル2オーバーパーの294で72ホールを終えた。

17、18番で連続バーディを奪って2位に浮上してきた戸田に3打差をつける快勝。第1ラウンドから単独首位を守り切っての完全優勝だった。

前年の陳に続く台湾勢2人目の本選手権制覇。ゴルフドムには「幸運にも名誉ある栄冠を頂くことが出来まして、私としてはこれ以上の喜びはありません」(一部現代語訳)という林の談話が掲載されている。
(文責・宮井善一)

※写真は林萬福のティーショット(ゴルフドム1938年11月号=JGA所蔵=より)

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 89】●暗夜でもプレーする、したいのがゴルフ 今年の夏は、また猛暑が続くのだろうか。そんな時はナイターゴルフが有効な場合もある。100年、150年前にもナイターゴルフに挑戦した人たちがいる。ゴル...
16/07/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 89】

●暗夜でもプレーする、したいのがゴルフ

 今年の夏は、また猛暑が続くのだろうか。そんな時はナイターゴルフが有効な場合もある。100年、150年前にもナイターゴルフに挑戦した人たちがいる。ゴルフドム1928年2月号では「暗夜のPlay」と題して、様々な「ナイターゴルフ」の特集をしている。出どころはわからない。
 とはいっても、現在のようにナイター照明をつけているゴルフ場は皆無なので、題名通り、暗夜、よくて月明かり、または灯を工夫してでも、ゴルフをやったようだ。
 その中でもっとも古い暗夜ゴルフの例として、1868年にセント・アンドルーズでケネディ氏とクルークシャンク氏の2人が、1ホールに提灯(スコットランドなので日本の提灯とは違うだろうが)1つが許されて「3ホールの暗夜のゴルフを試みた」とある。勝敗は不明だが、昼間と同じようにプレーしたという。
 1878年にホイレークでブラウン氏という人が午後11時にスタートして150以内で回るという賭けをした。11月29日なので、もう真っ暗だ。見物人がついていったが、特別ルールは「ロストボールは距離だけのペナルティでボールの捜索は誰も手助けしない」というものだった。4番で1球目、2球目のボールは、ショット地点から分かったのかどうか不明だが、このあたりによくあるウサギの巣穴に入ったようで見えなくなり、3球目がウサギの巣穴の少し手前で止まった。1、2球目はその同じ巣穴に入っていたというから、すごい正確さだ。結局147で回って、賭けに勝ったそうだ。
 1889年のマッセルバーフで行われた全英オープンでは、多くの選手が日没後にホールアウトし、ろうそくの明かりでスコアを提出した。このため、優勝のチャンスがない人には少しの賞金を出して棄権してもらい、チャンスのある選手が明るいうちにプレーできるようにしたという。今では考えられないようなことも行われていたようだ。ちなみに、この年はウイリー・パーク・ジュニアが2回目の優勝を飾っている。
 1922年に行われたケンブリッジ大とロイヤル・ウィンブルドン大の対抗戦で、ケンブリッジ大のストーレイ選手が66の記録をつくったが、プレー中に暗くなって、最終ホールは旗竿のてっぺんに明かりをつけてプレーしたという。
 日本でも1961年の日本オープンで史上最多の5人プレーオフがクラブハウスに明かりがついたころに始まり、3ホール合計で争われて細石憲二が優勝したが、最後はカップに懐中電灯を灯した「暗闇のプレーオフ」として語り草になっている。
https://www.golfdendou.jp/jga_jog/26-1961.html
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1928年2月号(JGA所蔵)
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※一部敬称は略します

【第10回日本オープン(1937年)】●台湾プロゴルフのパイオニア陳清水が初制覇 この年の会場は、1931年開場の神奈川・相模コース(相模カンツリー倶楽部)で、6月3~5日の開催だった。6621ヤード、パー73に設定され、ゴルフドム誌193...
09/07/2026

【第10回日本オープン(1937年)】

●台湾プロゴルフのパイオニア陳清水が初制覇

 この年の会場は、1931年開場の神奈川・相模コース(相模カンツリー倶楽部)で、6月3~5日の開催だった。6621ヤード、パー73に設定され、ゴルフドム誌1937年7月号によると、コースの設計者赤星六郎がティーマークからピンの切り方、芝の刈り方などのコースセッティングすべてを指示したという。「世話役」と呼ばれていたが、今でいうとツアーディレクターのような役割が誕生していたことになる。
 試合は予選ラウンド18ホール2日間、決勝ラウンド36ホールで行われた。ゴルフドム誌が「オープン観戦記」として同コースの春日井薫氏が詳細を記しているので、その中から抜粋(現代語)していこう。
 第1日、首位に立ったのは陳清水だった。大会前に行われたプロ月例の際に自らが出したコース記録69と同スコアで回った。観戦記筆者は優勝候補筆頭の浅見緑蔵の組についていたのでプレー内容の記載はなかった。島村祐正71、浅見72と続いていた。
 第2日、陳は9番パー5で第2打をバンカーに入れ、次もグリーンに届かず、ボギーにして流れを悪くしたそうだ。インに入っても4ボギーで77と落とし、通算146のパープレーとなった。浅見は好調で、アウトをパープレー、インに入って12、18番でバーディーを奪うなどパープレー73で回り、通算1アンダー145として首位に立った。
 前年から決勝ラウンドに進むのは予選ラウンド40位タイまでとなっており、37位43人が進んだ。
 最終日は36ホール。陳は前日がうそのような快進撃をする。前日失敗した9番で右のグリーンエッジから8~10ヤードほどを直接入れてイーグルを奪った。首位浅見より前の組で出ていたが、11,12番連続バーディーとしたときに、浅見がアウト42という情報がコース内を駆け巡り、陳の耳にも入ったという。17番で7,8間(約14メートル)のイーグルパットを決めるなど、午前はアウト35、イン33の68で、コース記録を自ら更新し、首位に返り咲く。
 そこからは陳の独走で、午後は70で回り、最終日2ラウンドを8アンダーで通算284。浅見も午後は盛り返したが、7打差がついて、陳の日本オープン初制覇が決まった。6月6日付東京日日新聞には「陳は意の如きプレーをみせ、特にドライバーは常に300ヤード飛ばし、さらにセカンドショットよく、パットの調子も出て神業に入るプレーをした」と記述している。
 ゴルフドム誌に「オープン優勝の感想」として陳の談話が掲載されている。
 「一昨年から2回渡米させていただき、試合の経験を豊富にし、大きな精神修養をすることができましたのは私にとって何よりにも優る教訓であり、同時に幸運であったとしみじみ感じています。冬の間が帰省(台湾)し、不得手だったショートゲームを専心にやりました。良好なコースコンディションと天候に恵まれ、最初から自分で出せるだけのスコアを出そうという気持ちでプレーを続けました。ゴルフを始めて11年になります。その間の進歩は実に遅々たるもので自らを省みて恥ずかしいぐらいです。以前は試合の前になってから練習する傾向がありましたが、近頃では普段から練習せねばならぬという気持ちになってきました。自分のゴルフを磨いていくには不断の練習による以外方法はないことが幾分分かってきたように思います。今回、思いがけない名誉を得ましたのは幸運だったと思います。名誉を傷つけないようにしたいと覚悟しております」。
 同誌ではこの大会の分析として、予選通過者43人を対象にした各ホールでの平均スコアを算出し、陳と浅見のプレー内容の比較なども行っている。今のツアーでは普通に得られるスタッツではあるが、当時は全員のスコアカードを見ながら手作業での算出だった。大会のデータ分析の重要性が見いだされた時期だったのだろう。
(文責・赤坂厚)
※写真はゴルフドム1937年7月号(日本ゴルフ協会所蔵)

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 88】●ゴルフのために様々なアイデアが出てくるものですゴルフドムは1928年に入ります。1月号では「新工夫」と題した写真集が目を引いた。100年前のゴルファーも、便利なように、うまくなれるように...
03/07/2026

【GOLF DOMを読み解く~1922年創刊 88】

●ゴルフのために様々なアイデアが出てくるものです

ゴルフドムは1928年に入ります。1月号では「新工夫」と題した写真集が目を引いた。100年前のゴルファーも、便利なように、うまくなれるように、いろいろな工夫があったらしい。
まずは上段の写真を左から。ゴルフボールを持ち運ぶための道具のようだ。詳しい仕組みはよくわからないが、1本のレールのようなものにボールがはまってくっついているように見える。調理器具にこんなのがありそうだ。これだと、キャディーバッグの中に、クラブと同じように差し込んで入れておけるというものだろうか。
「折りたたみ式パター」と題した写真は、あまり鮮明ではないのだが、現在もみられるような、クラブを折りたたんでいつでも持ち歩けるようにしたものらしい。いつでも持っていたいという願望があるのだろうか。
野球の打撃練習に使うピッチングマシンのようなものは、ゴルフボールがどれぐらい飛ぶかをテストする機械だという説明があるのだが、どうやって使うかはわからない。クラブで打ち出すのだろうか。
腰のあたりを固定する器具は、たぶん体がスエーするなど動いてしまうのを矯正するための練習器具とみえる。今も昔も同じような悩みを抱えている人は多いのではないだろうか。これを練習場に持ち込むには勇気がいりそうだ。
下段は恐ろしい道具たち。「悪魔のレーキ」というのはオークモントで採用されていた? というバンカーレーキ。こんな歯のレーキで砂をならしたら、砂の上に相当太い溝ができそうだ。ボールが溝にはまったら、目玉になったのと同じような状態になるので、出すのに苦労するだろう。こんなレーキでならしたバンカーには入れたくない。
最後は「キャディーの悪夢」。もしこんなキャディーバッグをもってくる人がいたら、キャディーは見かけた途端に間違いなく「逃げる」だろう。クラブ本数の制限がまだなかった時代、クラブをたくさん持っていきたいという思いから作ったバッグだろうか。
「新工夫」としているが、ちょっと首をひねりたくなるものも交じっていた。
(文責・赤坂厚)

★GOLF DOM(ゴルフドム) 1922年11月創刊。阪神ゴルフを引き継ぎ、日本初の本格的な全国ゴルフ専門雑誌。創刊当初は、日本初のプロゴルファー福井覚治が福井覚次郎名で編集兼発行人となっていた。
※写真は「ゴルフドム」1928年1月号(JGA所蔵)
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